帰り道に考えてたことを日記にしてたらワケわからんことに

ふと、昔の自分を思い出すと、いやなガキだったと思う。僕は国語の成績だけはよかったので、作文とか書くのは得意だった。そしてそんな自分に酔いしれているところがあった。昔の作文とか、日記とか見たら、くそむかつくと思う。
漫画とか映画とか絵とか、書いてる人間のどや顔が見えることがある。どうだ!すごいだろ!という気持ちは、不思議と紙やフィルムによくうつるものだ。
たいてい、こうすればウケるだろうと意識すると、どや感がにじみ出るものだ。それは結局ウケない。無意識に浮かんだものを書くと、それは本当に心から浮かんだアイディアであり、つまり、その人の経験や知識が結集して出来上がったエキストラヴァージンオイルであり、傑作たりうる。
素人がプロを真似ようとして頑張っても結局失敗するのはそこにある。教養がないことにはそもそも生まれもしないアイディアは、いくら考えたって生まれようがない。マスターピースとは、教養があればおのずとついてくるものなのだ。意識して作られたものは、結局どや顔をしてふんぞり返っている。
自分の日記をなんだと思ってるんだこのナルシストがと思われるかもしればいが、自分の日記も、なるべく無意識に書くようにしている、いやそうしたい。自分の日記をなんだと思ってるんだこのナルシストが。
何が言いたいかって、やっぱりいつでも、あんまり周りとか意識せずに、自分が本当に言いたいことを書いてたいねということ。でも無意識になろうというところがすでに意識してるんであって、とかくこの世は住みにくい。

今日は電波パターン?にあたりますね。5月26日の日記参照。