米沢旅行 遭難編

この日記は米沢旅行 旅行編から続いています。合わせてお読みください。

福島に着いた。さっきまでの雪景色がはるか前のことのように感じるほど晴れていた。だが、非常に風が強かった。ダウンがなければ凍えていただろうというくらい、猛烈に強く冷たい風だ。予定では、ここで郡山行きの電車を30分ほど待つ。
しかし、電車が強風により50分近く遅れているらしい。福島に到着したら、待たずにすぐに折り返すというので、予定時刻にきっちりプラス50分ということはないとは思うが、ここで予定の変更を余儀なくされそうだ。
郡山行きの電車が来たので、それに乗る。郡山までは特に障害なく走った。だが福島を出発した時点で、予定より15分近く遅れていた。次の郡山では待ち合わせは12,3分程度しかないので、郡山での乗り換えはほとんど絶望的だろう。郡山に着いて、すぐさま黒磯行きの電車に走って行ったが、すでに電車は出発していた。ここで、予定の変更は決定となった。
郡山で、次の黒磯行きの電車を待った。20分ほど待って、電車に乗った。東北新幹線との接続で4分ほど遅れて出発したが、途中までは順調に走った。行きでも若干足止めされた矢吹駅で、また少し待ち合わせがあったが、特に問題なく出発した。すでに予定はついえたので、若干の遅れは気にしなくなっていた。
久田野という小駅を出発し、3分ほど走ったところで、電車が急に止まった。車内が静まる。おりから強風が吹き付け、電車が揺さぶられる。直後、ただいま強風のため運転を見合わせるとのアナウンスが入る。外は草むらが激しく波立っている。砂埃が舞っている。20分ほど待っていると、風がおさまったので出発しますというアナウンスが入る。これでひと安心と思ったら、走り出して1分ほどで、また電車が止まった。再び電車が強風にあおられる。再び、強風により運転を見合わせるというアナウンスが入った。
周りには何もない。僕が行きで、のどかな風景だと評した区間だ。民家らしき建物が1軒見えるが、他は見事に何もない。どうやらこれは完全に孤立したようだ。車両の中に、疲弊した空気が流れる。どれくらい経ったのかわからないが、空気が淀み、乗客がピリピリしているのが伝わる。
卒業旅行なのだろうか、大きなかばんを抱えた5〜6人の、拳法部所属らしい女の子のグループがいた。話を聞いていると、彼女たちは四国に行くらしく、いつまでにここにいないといけないと焦っているようだった。何度かただいま運転の打ち合わせをしていますというアナウンスが入り、さっきからそればっかりー!と女の子たちがいら立っていると、近くにいたおじさんが、イライラしてもしょうがないよ、と彼女たちをなだめていた。そのおじさんは、茅ヶ崎に向かうらしく、カメラと時刻表を持っていたので、撮り鉄と思われた。女の子たちとおじさんとの間に不思議な交流が生まれており、女の子の一人がそれ借りてもいいですか?と、おじさんから時刻表を借りていた。僕らは僕らで、持っていた知図帳という地図で現在地を確認していると、おじさんが、次の駅までどれくらい?と聞いてきて、女の子も、見せてもらっていいですか?と地図を見にきた。なんともいえぬ一体感が生まれていた。吊り橋効果という言葉を実感した。女の子たちも僕らと同じく青春18きっぷで旅しているらしく、親近感がわいた。みんなとメアドを交換したい気分になった。
やがて、乗務員室から、無線が聞こえてきた。専門用語ばかりなので内容を把握できると思えなかったが、車内は一気に静まる。『通告が2件あります。平成二十五年三月十日、第三百○○号、久田野の・・・白河の・・・踏切故障が・・・うんたらかんたら・・・』なんていうのか、ポツダム宣言*1に聴き入る日本人になったようだった。内容は把握できなかったが、何か状況は本営に伝わったらしく、進展はあったらしい。だが、踏切故障という初めて入る情報に、皆とまどっていた。
詳細はわからないが、何かしらこれで事態の進展はあるかもしれないと、車内は不思議と沸いていた。ああ、景色がきれいと、女の子のテンションがおかしくなっていた。放送があった15分後位に、電車はようやく動き始めた。風はおさまったようだ。今思うのだが、踏切うんぬんはともかく、風がおさまらなければいずれにしろ事態は変わらなかったんだろう。電車はだましだましのように牛歩で白河駅へ向かった。白河駅の前には、阿武隈川の橋梁が控えていた。なるほど、これが走れなかった原因なのだろう。白河駅に着くと、女の子が車掌さんのところに飛んでいき、ここから先はどうなりますか?と聞いていた。すると、この後は黒磯まで行けますとのことだった。なんだかんだで、女の子たちの行動力のおかげで、僕たちは情報を仕入れていた。若い子たちの行動力に、ひたすら平伏しきりである。
その情報通り、黒磯までは快調に電車は走った。黒磯に着いた時、75分遅れという、今まで聞いたことのない遅延時間を聞いた。日はすっかり暮れていた。黒磯で宇都宮行きの電車を待ったが、それもやはり20分ほど遅れているらしい。もはや驚かない。黒磯から宇都宮までは特に問題なく飛ばしていた。問題というほどではないが、黒磯出発後、デッドセクションなのか、15秒ほど停電が起き、少しどよめいたが、乗り慣れている乗客のおばさんが、すぐ点きますよと言ってくれたのが嬉しかった。
宇都宮に着いた。女の子たちとはここでお別れのようだ。四国までがんばれ。早く家に帰りたい人たちが、ほとんど役に立たなそうな電光掲示板を眺めている。ホームで電車を待っていた。快速ラビット上野行きという、なんとも頼もしい行き先の電車が来て、猛烈な安心感に包まれた。首都圏に行けさえすれば、そこからはどうとでもなるはずだ。
電車は順調に走っていた。しかし、小山を出発するとき、この電車は快速ではありません、普通電車に切り替わっていますと捨て台詞のようなアナウンスが入り、暗雲が立ち込める。腹が立ったが、非常事態だから仕方ない。これで帰れるなら、文句を言うべきではないだろう。
東大宮まで来た。大宮という、耳になじみ深い地名を聞いただけで安心感がある。しかし、何か様子がおかしい。なかなか出発しない。すると突然、土呂と大宮間で人身事故が発生し、運転を見合わせていますというアナウンスが流れた。
これには頭が真っ白になった。もはや、激流に身を任せる草舟のような気分である。これはよくあることなんだろうか?今日は電車にずっと乗っているから、トラブルに巻き込まれやすいだけなのだろうか?
再びアナウンスが入り、土呂まで運転しますとのことだった。土呂などという、聞き慣れないところで止められてもなぁ、となっていたら、嫁さんが、土呂から大宮まで何キロ?土呂から近い他の駅はある?と聞いてきた。まさかとは思いますが、土呂から歩くつもりなのでしょうか?
土呂に着いた。運転再開見込みは22時20分ごろだという。いまから1時間後。この電車に乗っていたら、帰るころには日付が変わってしまうかもしれない。
嫁さんがおもむろに立ちあがった。どうやら、嫁さんは本気のようだ。一蓮托生。僕もついていくしかなかった。
聞いたことろでは、土呂駅から、東武野田線大宮公園駅まで歩ける距離らしい。嫁さんは行くわよと言った。近くのファミリーマートで食料を調達し、薄暗く見なれない住宅街を歩いた。他にも同志がいるらしく、同じ方向に向かう人がいたのが救いだった。天気予報では、首都圏は20度以上になり夏日となるということだったが、そんなことが信じられないくらいに寒かった。嫁さんは、2年前に比べたらこんなの大したことじゃないと鼓舞してくれた。そうだった、僕たちはあの日、歩いたんだ、10キロ以上・・・
大宮公園駅が見えた。東武野田線に乗るのはいつぶりなんだろう。こんな形で乗ることになるとは想像だにしなかった。いつもこうなのかは知らないが、大宮公園駅は人が多かった。電車は普通に動いているようだ。電車に乗り、大宮へ向かった。
もはや何が起きても不思議ではなかったが、これ以上何も起きてほしくなかった。動いているのかどうかわからない宇都宮線は捨て、京浜東北線に乗り、無事に山手線圏内まで出ることができた。そこまで来たら、帰れたも同然である。そこからは、なんとか家に着くことができた。
僕たちにとって、一生忘れることができない旅になった。青春18きっぷという名前の意味がわかった気がする。こういうトラブルも受け入れるしかない旅は、まだ若いうちでないと耐えられないだろう。それと、有事のときこそやっぱり女の人は強いなァ、とつくづく実感したのであった。

*1:厳密には「玉音放送」でしたね