己の読解力のなさに絶望

息子の小学校生活が始まり、どうなることかと気が気でなかったが、4月を乗り越えることができた。
至れり尽くせりな保育園と違い、小学校だと家庭で準備しないといけないことも多い。人数も保育園より多いし仕方ない。

この間、図工の時間に使うマットを、ご家庭で作って持ってきてくださいと言われた。
作り方はちゃんと書いてあって、半分の大きさの新聞紙を3~4枚重ねて、周りをガムテープで止めてくださいということだ。ちゃんとご丁寧に、図も描いてあった。
これだけの説明で、読者の皆さんはどういうものを作るのかイメージできたことかと思う。
小学校はこういうのを準備しないといけなくて大変だけど、よおしそれじゃあ作るかとママと一緒に製作に着手した。
まず僕は新聞紙を半分に切って、それを4枚ほど集めた。
それをママは重ねはじめた。

………えっ?、、、えっ?。。。ああー、なるほどそういうこと………

しばらく再起動をかけてなくて久しぶりに立ち上げたパソコンのようにしばし僕は固まってしまった。

僕の頭で起きたのは、つまりこうだ。
『半分の大きさの新聞紙を3~4枚重ねて、周りをガムテープで止めてください』
この説明を読んで、僕はどういうわけだか、「新聞紙を2×2に並べて広げて、漢字の『田』みたいにガムテープを貼り合わせる」と思ってしまったのだ。

僕の頭が異常なのであって、あなたの思考は正常なはずだ。僕がバラエティ番組の編集をしてたら、映画『サイコ』の殺人シーンのBGM*1を流すところだ。
だから、すごいものすごく平べったデカいマットができるなあー、作るの大変そうだなあーと、その妄執に完全に捕らわれて抜け出すことができなくなってしまったんだね。
『重ねて』と書いてあるだろうと言われたらなんの言い逃れもできないのだが、「田」の字の真ん中の「+」部分は新聞紙を重ねるってことだからな、と何も疑わなかった。
『3~4枚』って書いてあるのに、3枚で作ったら1枚空白があいていびつな形になるだろうと言われてもなんの言い逃れもできないのだが、なんか妙な指示だなあと軽く流してしまっていた。

危うく息子に、すごいものすごく平べったデカいマットを持たせてしまうところだった。息子に恥をかかせるところだった。
ママは最初からちゃんと理解していた。意図もしっかり読み取っていて、おそらくカッター台だから厚めに作るものなんだとわかっていた。僕は、何か絵の具かなんかが飛び散っても大丈夫なようにデカめなのが必要なのかぐらいに考えていた。
しかも、『周りをガムテープで止め』るのところも、僕はまず片面にガムテープ貼って、それを裏返して、ガムテープの粘着部分にうまいこともう一度ガムテープを重ね合わせるように貼る画を考えていたのだが、ママは、ガムテープを貼ったら、それを折りたためばいいんだねとあっさり攻略していた。ぼ、僕は、ガムテープ2枚の粘着部を貼り合わせることしか考えてなかった……。折りたためば簡単だし仕上がりがきれいだしガムテープの無駄にならないしいいことしかない………。

こんなのが人の親やってていいのだろうか?今回のこともママがいなかったら一体どうなっていたんだ。
4月を乗り越えたとか言ってるが、すべてママの努力と知恵で乗り越えられただけなのでは?保育園は至れり尽くせりなんて言ったが、小学校に比べてというだけで、保育園も何も準備が不要なわけではもちろんなかった。考えればすべてはママの血と汗の結晶だったのでは?

………

図工マット事件(未遂)は一事が万事というか、僕の無能さをまざまざと思い知らされた。己の読解力のなさにほとほと絶望した。
よく今まで生きてこられたものだと思う。周りに支えられ、支えられ、生き延びてこられただけだ。
支えてきてくれた、支えてくれている人たちのためにもこの命を無駄にしてはならない。とりあえずどこから直すべきなのか。もっと読書をするべきなのかな。

*1:よく聞く「キュッキュッキュッ…」ってやつ。トリビアの泉の、クリオネの捕食シーンの曲といえばわかる人はわかる