メーデー!を見すぎた人の話2

死は日常と無縁のものではない。身の回りには常に死が取り巻いている。
電車に乗りながら考える。走っている電車から飛び降りたらおそらく死ぬだろうと。高速で通り過ぎる景色は死に満ち溢れている。
踏切で電車が過ぎるのを待ちながら考える。電車が来る前の踏切は安全だ。だが、警報機が鳴りだし、遮断機が下りた途端、急に踏切に死の影が忍び寄る。
ビルの屋上で考える。ここから落ちればおそらく死ぬ。こうしてビルの上にいるから安全だけど、ほんのちょっと踏み外せばそこは一面死のゾーンだ。
最近、身の回りの死の影を妙に意識する。日常の安全地帯は恐ろしく狭いものに感じられる。それを考えると、僕が今までこうして平穏無事に生きてこられたのがなんだか不思議に思えてくる。
今までよく何も考えずにのんきに生きてこられたものだ。僕らの歩く歩道の外では、いつガードレールを突き破ってくるとも知れぬ車が行き交い、僕らの住む町の上では、いつ墜ちるとも知れぬ飛行機が常に飛び交い、僕らの住む地球の外では、いつ衝突するとも知れぬ小惑星が飛び交っている。
ようやく気づけたのだが、今まで僕を守ってくれた親父とおふくろは、僕と同じ視点で世界を見ていたようで、そんなことはなかったのだ。大人と子供だった僕の決定的な違いは、世の中は恐ろしいまでに恐ろしいものだ、という自覚の有無だと思う。それを意識できるようになったとき、自分が大人の階段を上ったような気がした。